『全電源喪失の記憶』
生々しい記事に絶句
購読している『静岡新聞』夕刊の連載記事『全電源喪失の記憶』を読んでいます。
今夕は、『東電の敗北 ⑤ 「いる人間でやるべ」』。
2011年、3月14日の福島第一原発の「記憶」です。
この記事は、二基の原子炉建屋が「水素爆発」をした直後、地元の協力企業が瓦礫を撤去した様子を伝えたものです。
高線量の放射線が飛び交う中、事態を収拾するには、まずは散乱した瓦礫を撤去しなければならない。
その後のメルトダウンした原子炉の冷却作業につなげるためです。
作業に当たった人は、警報機つき線量計を持っていたそうですが、作業中に警報が鳴ったかは記憶になかったようです。
その人の名は 栃木良重氏。
氏は、11日の事故発生以後、崩れた構内道路の補修、津波や建屋の爆発で散乱した瓦礫の撤去、バキュームカーを使った原子炉注水用の水の運搬と、縦横無尽に作業を続けたそうです。
その姿を記憶している東電社員は「凄かった」と、語ったそうです。
彼が、その間に被曝した線量は ?
そんな心配をよそに、余震が襲う。
さらなる津波を心配した東電社員が、「逃げよ !」と叫ぶ。
しかし、栃木氏が乗っている重機の速度は、たかだか 時速 7㌔しか出せない。
とにかく、現場から離れず、重機を操作し続けた栃木氏。
「なっちゃものはしょうがねぇ。いる人間でやるしかねえべ。」
夜になって ようやく 栃木氏は退避命令に従って、重機の鍵を東電職員に託した。
ところが、その二週間後、栃木氏は、原子炉使用済み核燃料プールに注水するためのコンクリート圧送機の遠隔操作方法を学び、第一原発に戻ってきた・・・。
日本は、こうした地元の職人たちの気質によって救われたようです。
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