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小泉八雲 - 9

薄幸な幼少期

小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン) の人生を一言で言えば、「自分の家庭探し」だと思います。
両親に見捨てられ、文無しで渡米したハーン。
アメリカでは黒人女性と結婚し、次に、日本で黄色人種と結婚したのですが、白人でありながら白人女性に対してコンプレックスがあったと思います。
それに、白人が信仰しているキリスト教に対しても懐疑的だったようです。
彼の生涯をみると、小生はそう感じるのですね。

彼は、1850年にギリシャのレフカダ島で生まれました。
父親は、その島に駐屯していたイギリス軍将校でしたが、ハーンが産まれる前に転属したので母子家庭になってしまったわけです。
生活に窮したハーン母子は、父親の実家であるアイルランドのダブリンに行くのでした。
ところが、言葉も宗教も違う生活に馴染めない妻を見たハーンの父親は、他の女性と結婚するために「結婚していなかった」と主張したのです。
当時のギリシャでは女性に教育をさせなかったので、ハーンの母親は字が書けなかったのでした。
それをよいことに、ハーンの父親は「結婚証書にサインをしていなかったから結婚は成立していない。」と言ったのですね。
その主張を裁判所が認めたため、ハーンの家庭は崩壊したのでした。
六歳だったハーンは、一人ダブリンに残されてしまったのです。
そこで、ハーンは父方の大叔母に預けられることになったのでした。

その大叔母には子供がなく、大金持ちでした。
彼女はハーンの父親の行いを非難し、自分の遺産をハーンに譲るように指示しました。
ところが、彼女の遺産を狙っていた親戚らは、ハーンを大叔母から遠ざけるため、フランスのイブトーやイギリスのアショーのカトリック系の学校に送り込んでしまいます。
ハーンは、そのイギリスの学校で遊んでいるときに左目を失ってしまいました。

そうしているうちに、大叔母の遺産を運用していた親戚は、事業に失敗して破産してしまうのです。
送金されないハーンは退学を余儀なくされ、ロンドンで惨めな生活を送ったのでした。
最低の生活に耐えかねて、ハーンは 1869年 つまり 19歳のときにアメリカに渡るのですね。

着の身着のままでニューヨークに着いたハーン。
そこからオハイオ州のシンシナティーに行き、印刷工の職を得ました。
さらに、文章を書くのが得意なハーンは、1874年に新聞社に採用されます。
安定した収入を得るようになったので、その年にマティー・フォーリーという黒人女性と結婚します。
ところが、オハイオ州では白人と黒人との結婚は禁止されていたので、ハーンは職を失い、しかも離婚してしまうのですね。

フランス語が得意なハーンは、フランス系の人が大勢いるニューオリンズに移り、苦心努力して新聞社の文芸部長にまで昇進します。
そこでハーンは、ラテン系の入植者と黒人との混血、クレオール人の文化に関心を寄せていたようです。
当時の著作『堤防の生活』には、人々の歌や演奏の説明が複数記載されていて、研究者によれば、それはジャズ誕生の前夜の様子を描いているようです。

さらに、ハーンはフランス文学の翻訳もしていて、アメリカではハーンのことをフランス文学の翻訳者として名が知られているようです。
その翻訳の中で、フランス人作家の日本滞在の経験を記した作品を知り、そこで日本に関心を持ったようです。
また、東洋の宗教とくに仏教哲学に共感するところがあったようで、それに関するさまざま書を渉猟したようです。
そのころ、カリブのフランス領西インド諸島に取材に赴いたのでした。
そこの住民は元奴隷だった黒人が多く住んでいて、カトリックに改宗させられたはずなのに、そうでもない様子を見て、昔から存在する宗教の根強さを感じたようです。
そこで、日本でも神道があるところに仏教が入ってきのですが、そう簡単には神道がなくなるはずがないだろうと確信し、それを確かめるためハーンは、ついに横浜に辿り着くき、出雲に向かうのでした。
出雲に近づくにつれて、お寺が減って神社が増えていく様子を見て、「神道はまだ生きている ! ! 」と自分の予想が正しかったことを確認したのでした。

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