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遠州国学

新興宗教的な広まり

平成 25年の『靖国暦』の 8月を見ると、12日は「君が代記念日」とともに、静岡 焼津神社祭 (→ 13日 )、徳島 阿波踊り (→ 15日 )
と、あります。

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( 夏祭りに備える焼津神社、社殿)

なぜ、全国的に有名な『靖国暦』に、静岡の小さな神社が載っているのでしょうか。

いまでこそ焼津神社というと、焼津の荒祭りが有名になってきました。
たとえば、その様子を写した写真が、毎年配布される焼津市民カレンダーの 8月を飾っていましたが、その神輿と一緒に暴力団員が映っていたことがあり、あわてて他のものに差し替えたという‘事件’が起きたこともありました。

しかし、小生が産まれたころの焼津神社は、どこにでもある氏神様を祀った鎮守の杜という感じで、現在のような祭りや、それに付随した行事は特になかったように思います。
どちらかといえば、藪に隠れた神社で、男女の逢引の場所として活用されていた感じでした。

なぜ、そんなことを知っているか ?
昔の焼津神社の住所は、焼津 369番地。小生の生家は、その隣の 焼津 370番地だからです。
地図で見れは、本殿の隣に我家があり、とても神輿祭りなんてできる広さはなかったのです。

しかし、時の市長が焼津神社周辺の区画整理を命じ、拙宅ら数件の家屋は、強制立ち退きの憂いに遭ったのです。

つまり、焼津の港の発達とともに、神社の祭りも盛大にやろうということになり、それには境内を拡張する必要が生じ、本殿の横にある我が家の存在が邪魔だったようです。

したがって、正月や 8月の大祭のときなど、焼津神社を訪れるたびに、社殿の横にあった‘我が家’を思い出すのです。

そんな静岡の田舎の神社が、なぜ『靖国暦』に載っているのか ?

そこで『焼津神社誌』をみると、江戸時代の後期、慶応 4年に、徳川家追討令が発せられた際、当時流行していた遠州国学に傾倒していた神主らが草莽 (そうもう) して、駿州赤心隊を結成し、京都の警護などをしていたそうです。

その主唱者が 焼津神社の神主であった鈴木外記で、その長男 鈴木楯雄が、明治 2年、東京招魂社 (現在の靖国神社)の初代社司を拝命したとあります。
(楯雄は、その後、桑原真清の婿養子として迎えられ、遠州 浜名郡長として勤王事跡の顕彰に尽くしたと付記されています。)

ここで ようやく、焼津神社靖国神社との接点が明らかになりました。

その後、尊王的な思想を持った遠州国学を引き継いだ歴代の焼津神社の神主は、焼津神社を 官国幣社に昇格させようと、草薙の剣伝説を焼津の地に持ってくるなど、日本武尊鎮斎の由緒などを作ったわけです。

しかし、社格の格上げは、当時の全国神職会に提議しても取り上げてももらえず、そこで焼津神社は特別な神社としての由緒をさらに作り上げていくわけです。
それでも、取り上げてもらえず、結局、旧官国弊社に上がったのは、戦後を経て 昭和 41年だったと記されています。
( つまり、‘我が家’が引っ越してから、社格が上がったようです。我が家は、焼津神社の歴史上、邪魔な存在だったようです。weep )

このように、日本武尊を利用して社格を上げようとする動きは全国的な規模であり、日本武尊奉齋神社一覧を見ただけでも、全国におよそ 2,000社近くあるようですね。
焼津神社は その ひとつです。

ところで、小生が幼いころ、日本武尊の石碑が焼津の各所に建てられました。
おそらく、焼津神社旧官国弊社に昇格したころで、ようやく草薙の剣伝説が公開出来るようになったからだと思います。
そして、次々と‘伝説’が生まれ、当時、保育園の横に、「ここで日本武尊は沓 ( くつ ) を脱いだ」なんて記された石碑も作られましたが、子供心に、どうしてこの場所が特定できたのか不思議でした。

Photo_2 Photo_3

(左が焼津神社境内、右が御沓脱の旧跡にある 日本武尊像)

とにかく、この地では、江戸の末期から焼津神社を中心として遠州国学が広まり、皇国史観、報徳思想も深まり、戦時中では皇道産業焼津践団が焼津神社で南方進出の結束式をするなど、国威掲揚に神社が活用されたようですね。

このように、近所の神社仏閣を調べると、郷土の新たな発見に驚くことがあります。
神社仏閣の蔵書に記された内容は、大げさで、かなり編集されたものが多く、実際とはかなりかけ離れたものが多いようです。
それは、同時代の民家の蔵などに眠る史料などと対比すれば分かります。

しかし、何はともあれ小生の生家の隣の神社は、本当かどうかは知りませんが、千六百年以上の歴史がある由緒ある神社ということで、『靖国暦』にも載っていることは、ある意味、自慢であります。

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コメント

若い時静岡に半年くらい住んでいました
そのとき清水との境にある草薙というところでヤマトタケルが草薙の剣を使ったのかと思いましたが、草原で火をつけられたのは焼津でしたよね?
静岡と清水の境にある草薙はどういう因縁なのでしょうか?

投稿: おばQ | 2013年8月 2日 (金) 16時54分

おばQさま、毎度ありがとうございます。
ここだけの話ですが・・・
草薙の剣伝説は、最初は清水区にある草薙神社が元です。
「迎え火」伝説も草薙の事件で、その石碑は草薙神社の山頂である「日本平」にもあります。

http://www.surugawan.net/guide/31.html

その伝説を強引に焼津に持ってこようとしたのです。
しかし、当時の神職会は、それを許さなかったのですね。

時が経て、日本神話の信憑性なんてどうでも良くなったのか、日本武尊伝説を基に、社の由来を定めようとしていた全国各地の神社はその由来を認められたようです。
そうして焼津神社も公然と日本武尊をご本尊 ? に迎えることが出来たわけです。
同時期に、天照大神の弟である 素戔男尊 (『日本書紀』 名) も、同様に全国各地の神社で名乗ることが認められたので、同じように、素戔男尊を祭神として祀る神社が激増しました。

つまり、全国に広がっている弘法大師伝説みたいなものですね。

ですから、焼津神社には記紀とは関係なく、焼津神社独自の歴史観に基づいているもので、それを敢えて否定することもないと思います。

まあ、国学自体が捏造ですから、それを基にした伝説なんて、どうでも良いのでしょうか ?

現在では、神社なんて自由に建てて、自由にその由来を作って、それに沿った祭神を立てることが出来るようです。

ですから、営業品目も「家内安全」「交通安全」「渡航安全」「学業成就」「安産祈願」など、多岐にわたるのですね。

ちなみに、草薙神社と靖国神社との関係は、下記サイトをご覧ください。

http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr4-43.pdf#search='%E9%A7%BF%E5%B7%9E%E8%B5%A4%E5%BF%83%E9%9A%8A+%E8%8D%89%E8%96%99%E7%A5%9E%E7%A4%BE'

投稿: あらま | 2013年8月 2日 (金) 19時47分

ほおお・・・・・そうだったのですか、私は焼津が古事記由来の名跡とばかり思っておりました。
記紀の件ですが、最近は全くの史実ではないにしろ、いろいろな出来事を基に書かれているというふうにみなされているようです。
最近、記紀に凝ってまして関連する本を100冊以上読みました。現在進行形です。
ISOより面白いですね。

投稿: おばQ | 2013年8月 2日 (金) 21時05分

おばQさま、重ねてコメントをありがとうございます。
小生は、史実なんてタイムマシンでもない限り、確かめることが出来ないと思います。
むしろ、後世の人たちが作り上げるのが「史実」だと思います。

また、ギリシャにしろ聖書、あるいは仏典にしろ、神話の世界は、「史実」というよりもその精神を伝えるもので、日本に神話があることは素晴らしいことだと思います。
さらに、その神話の世界と皇室とをつなげていることも、世界に類を見ないと思います。

語部によって語り継がれたとされる日本神話、特に古事記は、大変記憶力の良い人の話を編纂したものということですから、それはそれでよいと思います。

ただ、実証考古学が進み、あらたな「史実」が生まれても、今までの語り継がれた史実を否定するものではなく、それらを併記して後世に残すことが必要だと思います。

焼津の地名も、今の焼津の人は江戸時代のそのまた昔からあるように思っているようですが、実際には徳川の古文書には「増津」とあり、それが「益津」に変化し、「焼津」を地名として使われ始めたのは、ごく近年のことのようです。
さらにいえば、駿河湾の一辺の集落に暮らしていた人たちが、自分たちの住んでいるところが「焼津」という認識を持っていなかったようで、当時の古文書をみても、もっと狭い地域の地名を用いています。
しかし、現在の焼津の人たちは焼津は昔から焼津だと信じていて、それもまた「史実」ですから、それはそれで結構なことだと思います。

こうしてみますと、歴史というものは勝者の歴史で、神社仏閣の由来も、後世の人が作り上げていくもので、それを史料としている日本の歴史の研究は、史実を追う作業よりも、そこに伝わる精神を受け継ぐという方向のほうか無難だと思っています。

亡くなった人も、生前はどんなに悪人でも、今となれば懐かしさと良いところだけが残りますが、それと同じような感覚だと思います。

投稿: あらま | 2013年8月 3日 (土) 09時38分

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