« 誕生日の赤いバラ | トップページ | 母のテレビ »

放射能汚染と生存権

憲法第25条

本日は憲法記念日。
しかし、いつもの憲法記念日とは違うような気がします。
東日本大震災後、あらためて被災者の生存権が問題になっているからでしょう。
長い避難所生活を強いられているのに、一向に進まない仮設住宅の建設。
見えない放射線への恐怖。
憲法で保障されているはずの人権が侵害され続けていると言うのですね。

そこで、思い出すのが「朝日訴訟」。
本日話題にしているこの訴訟は、一連の朝日新聞を相手取った訴訟のことではありませんよ。

その朝日訴訟が問題にした憲法 25条を改めてみてみましょう。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利
      を有する。

   2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び
             公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

福島第一原発から出ている環境への放射能、放射線の放出が止まらない今、周辺住民、特に婦女子の被曝量が問題になっています。
政府の許容基準値に対して、日本だけでなく海外の学会も警鐘を鳴らしています。

もちろん、いたずらに放射線被曝を恐れることは風評被害にもつながり慎まなければならないのですが、政府の対応を見ていると不安が募るばかりです。
このままでは、あらたな朝日訴訟が起こる可能性もあると思います。

ただ、この究極の社会主義的条文については、反論もあり、削除すべきだと言う意見もあります。

本日は、その反論について記してみます。

まず、合衆国憲法には、生存権に関する記載がないといわれています。
その合衆国が、一昨日、ビンラディンの生存権を奪いましたね。
しかし、アメリカの独立宣言は、「生命、自由および幸福追求において」全ての人がある特定の排することのできない権利を有すると宣言しているといいます。
このように、世界の趨勢としては、生存権を認める傾向にありますね。

しかし、生存権の根拠があいまいなことも事実。
生まれてきたから生きる権利がある・・・と言う論法が、はたして妥当なものなのかは、確かに疑問の余地があると思います。

実際に、生物界では適者生存といって、その環境に適合したものに生存を許されると言うダーウィニズムがあるようですね。
さらに、牛や豚や鶏が、どんなに生存権を主張したところで、ビーフ・ポーク・チキンになってしまうと言う現実があります。

人間と言う万物の霊長と思い込んでいるものに対して、神は生存権と言う特権を与えているのでしょうか ?

小生は、もし生存権というものがあるのなら、それも他の人権と同様に、保証されたものではなくて努力して勝ち取るものだと思うのです。
あるいは、親などの祖先や 先人の遺産として、相続できるものだと思います。

|

« 誕生日の赤いバラ | トップページ | 母のテレビ »

被曝」カテゴリの記事

コメント

あらま様の憲法25条論をお聞きした記憶があると思い振り返りました
あらま様も論の転載を許可していただいたのは、ちょうど2年前のことでした
お互いに歳をとりましたが、現実社会は進歩がなく、災害だけが忘れないうちに起きているようです
がんばるしかありませんね

投稿: おばQ | 2011年5月 3日 (火) 14時55分

おばQさま、まいどありがとうございます。
日本は必ず復興しますが、数々の訴訟が持ち上がるでしょう。
そのとき「人権団体」が暴れないように、今から布石しておく必要があると思います。
これ以上、日本が食い物にされることを防がなければならないと思います。

投稿: あらま | 2011年5月 3日 (火) 19時40分

たまに殴り込みに行くのですが、憲法学の教授と言うのは思考停止が大好きです。書いてあることを自明の事として扱って恥じない。そして、それがおかしいとか、その根拠は何だと言うと、「そう言う説は今まで聞いたことが無い」と言うだけ。いや、だから今それを説明しているところだと言いましても「それは他でやれ」と言うだけ。ロックが革命権や生存権を自明の物とするには神の後光が必要だった事は、市民政府二論を読めば書いてあること。また生存権をはじめに社会契約的に定義したホッブズと、それを市民主権的に考えたロックの思考方式に激烈な断裂があるのに学者はみんな無視してる。

正直こういうクソ共が戦前の大日本帝国憲法の「天皇は神聖にして犯すべからず」を妄信して暴走をさせる一助になったんでしょうね。あぁ胸糞悪い。

投稿: ある大学生 | 2011年5月 5日 (木) 11時38分

ある大学生様、ありがとうございます。
権利については「義務先行説」が定着していると思います。
つまり、努力した分だけ権利を得ることが出来る。
あるいは、親の権利を子供が譲渡できるという考え方ですね。
サヨクのように、努力もしないで最初から権利があるなんて主張することは、社会則から見ても、自然則から見ても矛盾しています。
だいたい平等なんてものは自然界には存在しません。
なのに、平等な富の分配なんていう、その理想を追う姿は、妄信、狂信です。
大学の教授陣たちがそのよい例ですね。

投稿: あらま | 2011年5月 5日 (木) 19時48分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 放射能汚染と生存権:

« 誕生日の赤いバラ | トップページ | 母のテレビ »