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見畏み (みかしこ-み)

祈りの国

「八百萬 (やおろず)の 神達共に 聞食せと 恐 (かしこ)み恐 (かしこ)みも曰 (もう)す」・・・Photo

これは、地鎮祭などで「お祓い」をする神事の際、神主様が祝詞 (のりと) の最後にいう詞ですね。

本来は、「恐み恐み~」ではなくて、「畏み畏み~」なんだそうですよ。

この「カシコミ」とは、了解したときに言う「畏まりました」と同様に、自分よりも立場の高い人に対して、おそれ敬う気持ちを表すために使う言葉なんだそうですね。つまり、「畏敬」の念を表す言葉なんですね。

そして、この「カシコミ - 畏」は、日本最古の歴史書である『古事記』にも記されています。

その『古事記』の一説を見ると・・・

昔し、日本の太陽女神である 天照大神 (アマテラスオオミカミ)の弟である 須佐之男尊 (スサノオノミコト)が、滅茶苦茶なことをしていたそうです。その暴挙について、天照大神は、当初は善意に解釈していたそうです。

ところが、須佐之男尊の暴挙が昂じて、遂に、天照大神が耐えかねて、洞穴の中に籠もってしまうのですね。

こうした『古事記』の記述について、ほとんどの解説書では、天照大神が弟に対して恐ろしさを感じた、あるいは憤りを感じたので、洞穴に閉じこもり、岩戸を立てたと言うことになっています。

古事記』では、その箇所を「見畏 - ミカシコミ」と、記しています。

ところが、最近では、この「見畏」という文字は、「反省する」と言う意味だということが分って来たというのですね。

そこで、日本語の「」という字の意味を考えてみましょう。

この「」は、「畏怖」という字に使われているように、恐ろしいという意味よりも、「上」に対して敬虔な気持ちを表す言葉ということを、前にも書きました。

つまり、悪人や病気に対して恐怖を感じた時に「」という字を使うことにたいして、神様や自然の脅威に対して怖ろしさを感じた時には、この「」という字を使うようです。

そして「見畏」という言葉は、自分の足りなさを痛感して、神様に対して申し訳ない・・・という気持ちを表した言葉なんだそうですよ。

そのほかに、人間が怖れる心を表す言葉が「」に対して、神が怖れる心を表す言葉を「」と表す・・・という解釈もできそうです。

そういうわけで、天照大神が洞穴に隠れたのは、弟の須佐之男尊が恐いからではなくて、実は、真剣に自分の力の足りなさを反省して、真剣に人々の生活が良くなるように祈ったというのです。

こうして、民の幸福を祈る伝統がはじまり、それから 3000年後の現在でも、天皇は、毎日、国民の幸せを祈っているそうです。2

皇室の重要な祭祀が行われる宮中三殿の一つに「賢所」(かしこどころ)があります。そこでは 天照大神が祀られ、その御霊代である「神鏡」が奉斎されているそうです。

( 鏡とは、自分の姿を見る道具ですね。つまり、「見畏む」ということは、神様の霊の前で自分を省みること・・・と、解釈できそうです。さらに、その「反省」をする場所が「カシコドコロ」と解釈できそうです。その賢所で、歴代の天皇はその神鏡を通して 天照大神の啓示に触れるということです。)

天皇に仕えたことのある人の話を伺うと、陛下は、毎日、朝起きてから、すぐ 礼拝するそうです。
それは、皇居にいても行幸中でも欠かせていないということです。

その際に奏上する祝詞 (呪文) の内容は、日本国民 一人一人の幸せを祈るもので、「国民に災いがあれば、自分自身の身を通して、抜けて欲しい・・・」というものなんだそうです。

つまり、陛下の祈りは、国民の災いを一身に受けようと言う内容なんだそうです。

これを、朝夕に祈るのだそうです。

我々が神仏に祈る時は、自分に災いが降りかからないように・・・と、祈りますが、天皇は一切の災いを一身に背負うといういう覚悟とことで、大きな違いですね。

さらに、陛下の祈りの中には、自分自身が幸福になりたい・・・なんて内容のものは一つもないそうです。

このように、国のトップが、毎日欠かさず、国民一人一人に向けて真剣に祈っているのですね。

その天皇に対して、どれだけの国民が、陛下の健康とか皇室の安泰を、毎朝、祈っているでしょうか。

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コメント

そうなんですか
うーん、古事記はセックスと殺人だけではなかったんだ

投稿: 佐為 | 2011年1月19日 (水) 22時50分

佐為さま、コメントをありがとうございます。
どこの国の神話にも共通していることは、神様はセックスレスみたいですよ。
特に始祖神にその性質があるようです。
キリストも、処女マリアから生まれましたし、天照大神は、その父親が目を洗ったときに生まれ、その弟 須佐之男尊は、父親が鼻を洗ったら生まれたということです。
どうやら「性」は神聖なものではないようですね。
また、神様は人ではないのですから、高天原の出来事は、「殺人」ではなくて「殺神」ということになると思います。
それが「神代」から「人代」に移る過程で、殺戮が始まる。
神は善ですが、人間には善と悪があると言う具合で、ある意味、神は人間の理想像と言うことなんでしょうか。
さて、学者様の説によれば、『古事記』の内容はあくまでも例え話で、後世の人の想像的な部分があるといいます。
しかし、その御伽噺のようなものでも、古代日本の精神を伝えているものとして、ガクモン的な価値があるということです。
つまり「心」を伝えているということなんでしょうか。
こうしたことを研究することが、いわゆる「神学」ですね。
最近の国学院とか皇學館では、そうした研究が盛んなようですね。

投稿: あらま | 2011年1月20日 (木) 11時06分

紅林とかいう警部の話は恐ろしいですね。
夫婦の蒲団のまんなかにいつも警察官を寝かせないと安全ではないですね。
まぁ彼は重要な人生部分が戦前の体制時代のようですね。

投稿: 莽翁寒岩 | 2014年4月 6日 (日) 09時53分

莽翁寒岩さま、いらっしやいませ。
コメントをありがとうございます。
ところで、いただいたコメントは下記記事に対するものでしょうか。

http://www2.cocolog-suruga.com/chunenpower/2014/03/post-4938.html

警察や検察、そして裁判所という司法界の常識。
そのなかに「冤罪」という DNA が、戦後の今も繋がってきている・・・。
全ての証拠を検察が握っていては、冤罪を晴らすことは困難ですね。
アメリカのような第三者機関みたいなものがあって、検察が握っている全ての証拠を検証することか必要だと思います。

投稿: あらま | 2014年4月 6日 (日) 21時51分

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