細野敏夫 著 『エントロピーの科学』
人間の活動は・・・
さて、年末の大掃除です。
先日は、大掃除の途中に、古いギターが出てきたといことで、しばしの間、若い頃を懐かしんでしまいました。
そこで、気を取り直して掃除を再開しようとしたら、今度は、こんな本が出てきてしまったのです・・・。
それが、『エントロピーの科学』。
日本のバブル経済が崩壊し、環境問題が本格的に騒がれていた 1991年に、この『エントロピーの科学』という本が出版されました。
かれこれ 20年前の本ということですね。
我が家では、古い本は捨てられてしまう運命なんですが、なぜこの本が‘生き残っている’のか、興味が沸いてしまったのですね。
さて、エントロピー増大の法則・・・といえば、熱力学の第二法則ということで、つまるところは、この世に存在する万物、森羅万象は、いずれは総て蒸発してしまう・・・ということらしいのですね。
簡単に言えば、時間がたてば、お湯が冷めて水になり、氷が溶けて水になる・・・。結局、総て水になる・・・。
そんな具合に、形あるものは、すべて崩れて無くなって、やがて 均一な世界になってしまうだろう・・・ということのようですね。
だから、どうよ・・・ということになるのですが、この本が出版された当時、情報拡散問題とか、環境破壊問題を考える上で、エネルギーがどのようにして移動・変化していくのかを考えることは有益だろうということで、一時期 ブームになったようです。
つまり、当時、ブームになっていた「カオス理論」と融合して、「エントロピー」を考えることは、いろいろな社会問題を解決する基本となるだろうと期待されてしまったようですね。
しかし、このエントロピー的思考は、思ったよりは あまり繁盛しなかったようです。
なぜでしょうか ?
エントロピー・・・・という概念自体が 未だ よく分らないのですね。
結局、また、「だから、どうよ。」ということになってしまったようです。
しかし、この本を読んだ当時の小生は、「自然の全体的な現象はエントロピーを増大させる方向に進んでいるかもしれないが、生物進化とか人間の社会活動は、エントロピーを減少させる方向に進んでいるのではないか・・・」と思ったのですね。
さらに言えば、人間の「善」とは、エントロピーを減少させていく「減少系」であって、逆に、人間の「悪」とは、エントロピーを増やす「増加系」ではないか・・・なんて思うようになったのです。
簡単に言えば、今の小生のように 大掃除をサボってばかりいれば、部屋の中が片付かず、いづれはゴミ屋敷になってしまう・・・これが、エントロピーの「増加系」ということで、「悪」。
逆に、妻のように、セッセと休まず、大掃除をしていれば、部屋が片付き、快適な暮らしが出来る・・・これが、エントロピーの「減少系」ということで、「善」。
つまり、部屋を片付けるという行為は「善」ということですね。
ところが・・・です。
考えてみると、掃除をサボるということは、エネルギーを使いません。
逆に、掃除をするということは、掃除機を使ったり、手足を動かしますから、色々なエネルギーを使うわけですね。
つまり、環境を良くするためには、さらにエネルギーを使わなければならない。
それでは、掃除をするということは環境問題の解決にはならないのではないか・・・
そんな時に、家内の声・・・。「お父さん、窓ガラスを 拭き終わったの ? 」
その声に我に返った小生は「もうすぐ終るよ」と、ウソを言います。
実際に、この本を開いてから、小生の目の前の窓ガラスは綺麗になっていません。
小生がサボっていたことで、エントロピーが増大したのかな ?
結局、エントロピーの概念は、考え方が美味しそうに見えても、「だから、どうよ・・・」と言うことなんでしょうか ?
結局、この本は捨てられず、また元にあったところに納まった次第です・・・。
『エントロピーの科学』 細野敏夫 著 新コロナシリーズ ⑪ コロナ社
1991年 8月、初版発行 174ページ ISBN 4-339-07661-9
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コメント
前回のエントリの話題をついでにここに持ち込んで書いてしまうのはルール違反だと思いながら。
高度成長期はもちろんそうでした。日本は欧米に無い製品を生み出すことでアイデンティティと経済的繁栄を遂げました。しかしその前の40~50年代の下積み、もしくは明治維新以後の近代化の流れが無ければそれもできなかった事でしょう。
明治維新期は全てサルまねをしつつ、技術を蓄える時期でした。蒸気機関から船から飛行機から、最新の物は全て外国の物を買って模倣を試み、成功したの成功しなかったので良く人が死んだ時代です。思想界で言えば福沢諭吉など日本人と言う立場で語る稀有な人物もいた一方で、中江兆民や幸徳秋水、井上馨など、外来政治をそのまま日本に定着させようとする人物も多かったと思います。大正、昭和初期にはそれにちょっとした工夫を加えて日本ならではの物にする事でアイデンティティを求めました。それは大衆文化や科学技術を初め、昭和研究会や近代の超克とか言って結局全体主義になってしまった思想界までそのような動きの結実だったでしょう。二次大戦期にそれがやっと実を結び、97戦車や97戦などの他国並みの兵器から、零戦や大和などの他国を越える技術力を見せましたが、その方向では日本は挫折しました。
戦後軽工業の時代を経て、朝鮮戦争時の特需により重工業が再度見込める段になったところで、日本は再び大正の段階から足を踏み出すことができました。それは国家が解体されたのではなく、企業体も分割はされこそ残り、また中小の企業は技術を保ったまま残る事ができたこと。これが大きかったと思います。あとは基礎技術力はあるのですから工夫をし、飛び抜けた物を作って行くだけの段階にあったのです。
今中国はどの段にあるのか。中体西用(中華を主体とし西洋を取り入れる)が失敗した中国では、大戦前にはろくな技術力蓄積が為されず、専ら戦力はドイツからの技術士や米国からの義勇軍に頼って日本以上に肉弾戦術を取っていました。戦後も大躍進のせいで重工業に転換するのに失敗し、文化大革命で国土を荒廃させた後、中国の企業体が最先端技術に足を踏み入れたのはやっとこの20年です。
そうした場合、彼らは現在日本や他国の技術をマネして自分の技術にする事に専念しているのは何もおかしくない話でしょう。むしろ、都市計画や発電所の建設計画、液晶やパソコン部品(中枢以外)の製造、自動車の開発では、あくどい手法を使っているとはいえ既に中国が一歩リードしている部分もあります。
であるならば、今後20年は中国が一定の技術水準を身に付けて工夫をしてくる時間では無いのかと私は考えているのです。
くだらない模倣だってあります。取るに足らない贋物だってあります。ただ一方で、彼らがドイツのリニアモーターカーを上海に実現させて自前で整備しており、また上海の地下鉄の総延長は世界中のどの町の地下鉄よりも長いなどと言うような事実も忘れてはならないと思うのです。
投稿: ある大学生 | 2010年12月22日 (水) 13時51分
さて・・・エントロピーとかカオス理論とか聞かなくなりましたね。確かに。ただフラクタル研究は進んでいるらしいですが。
エントロピーの増加する人間の善行ってないのでしょうかと考えて見ると、引きこもりと社交的な人物などはいかがでしょう?
社交的な人物は自分を社会と言うより広い空間に溶け込ませようとするためエントロピーの増大だと考える事ができます?一方引きこもりは引きこもっているのでエントロピーは増大しません。
まぁ引きこもりが一概に悪いと言える環境は無いのでちょっと的外れですかね。
ん~、まぁなどと言いつつ掃除がいまだに身につかない私は、その労働力分のエントロピーを増大させていないのであらまさま的にはエントロピーを増大させていない事に・・・なってるのかな(’’)
正直言って人間が新しく生まれる事自体や万有引力で星が生まれるのなんかエントロピー増大に反していると思うので眉唾ですがね。だってエントロピーが常に増大するなら、宇宙が作られた瞬間から均一になるはずですから。それがそうでもないよ・・・均一にならないよと言う事を証明したのがこの前の小林益川理論に裏打ちされた南部博士のCP対称性の破れなんですがね。一時騒いだ人達にはその時ほどには注目されていないようで。やはりすべては政治か・・・
投稿: ある大学生 | 2010年12月22日 (水) 14時04分
ある大学生さま、重ねてコメントをありがとうございました。
さて、「技術」について 少し、ご説明申し上げます。
それを説明するに、少し話題から逸れてしまいますがお許しを・・・。
さて、江戸時代の鎖国政策から開国のきっかけになったのが、アメリカのペリー来港でしたね。
その四ヵ月後、今度はロシアが開港を迫りました。
そのとき、大きな軍艦で来たのでしたが、安政の大地震の津波の影響などで、ロシア軍艦である ディアナ号は沈没。そこで、日本は「戸田号」を作ってあげて、プチャーチン提督らを帰国させて上げました。
つまり、既に、当時の日本の田舎にも、大きな船を作る技術があったのたのですね。
当時は、幕府の鎖国政策で、大型船の製造は規制されていました。
そういった時代が長く続いていたのにもかかわらず、必要となればスグにも大型船を作ることができる技術があったということは、技術者の間で、技術の伝承がなされていたということです。
このように、技術と一言で言っても、同じことを繰り返しているうちに神業のようになる熟練工というものもあれば、技術の本質を伝承するものもあります。
今の日本でスッカリ失われてしまった、親方に師事して得る技術とは、そういうものでした。
つまり、基本が叩き込まれていますから、応用ができるのですね。
そうした技術者は、レベルが高いので、他国の高いレベルの技術を容易に理解して体得できるのですね。
つまり、自分のものにしてしまうのです。
単なるサル真似とは、およそレベルの違う話です。
今の中国は、実際に行って分ったのですが、そうした基本的な技術の伝承といいますか、精神的に鍛え上げられていないのですね。
もちろん、中国にも熟練工は沢山います。
しかし、今後、もし、中国が産業を本当に発展させたいのであれば、技術者を育てなければならないのですね。
そのためには、高い技術を持った人から‘感化’されなければならないと思います。
そうした素地が日本やドイツ・スイスなどにはありますが、中国にはありません。
確かに、アジアには日本人に勝るとも劣らぬほどの高い技術を持った‘熟練工’を見かけることはありますが、洗練された技術者はいません。
その違いは大きいと思います。
そのことについては、中国は 清の時代から痛感していました。
そこで、太平洋戦争が終っても、大陸にいる日本人技術者を帰さないで暫くの間「留用」していたのですね。
その日本人技術者から技術を得ようとしたのです。
・・・しかし、中国の国民性といいましょうか、師弟関係を築くには至らないのですね。
そこで、技術大学などを作って、日本などから沢山の熟練工を迎えているのですが、上手く行っていないようです。
やはり、国民性が違うのですね。
日本やドイツ・スイスなどは、師匠が見ていないところでも真面目に仕事をします。
しかし、中国人の場合は、師匠の目が届かないと、ズルをするのですね。
そうした国民性を正さない限り、中国は、技術立国には成り得ないと思います。
いま、中国が外形上、技術を習得しているように見えるのは、単に、うわべのシステムが動いているからです。
でも、日本も空洞化が進み、技術の伝承、精神の伝承が途絶えようとしています。
それが、エントロピーが増大しているということで、そちらのほうが大問題だと思います。
投稿: あらま | 2010年12月22日 (水) 18時58分
ご教授ありがとうございます。
技術が伝わっていると言う事は納得しております。戸田号の件について私は寡聞にして知りませんで、日本の洋式船技術の始まりはここだったかと納得しました。しかし、戸田号は100トン級の小型スクーナーだったようですね。それならば江戸期の1000石船の方が大きいですよ。技術的な違いはあったと言え、設計を伝える上での言語的な差が一番の問題点だったのでは?
同じように中国では、宋が外洋航海に使っていた500~600トン級のジャンク船は当時の東インド会社船より大きい位で、造船技術と言う点では随分先進していたのですよね。その後明清時代の倭寇(日本の海賊に限らず)により海禁が進み大砲が載るレベルの大型船の建造は為されなくなってゆく訳ですが。
清国が洋務運動に入ってから掘り起こされた技術者は、1866建設の福建造船所などで働き、20年後には当時一線級である一等防護巡洋艦を建造できるようになっています。
まぁ全ては太平天国の乱で無に帰して、大半の一般国民の教育し直しの方が先だと文化文政面まで踏み込む変法自強運動となってゆくのですがね・・・。
技術者と熟練工の違い・・・と言う事ですが、国民性と簡単に言ってしまいますが、日本人に劣化が見られるように彼らに進歩もみられるのではないかと思ってしまいます。知り合いに福建省からの留学生がいますが、そいつは誠実でしっかりした奴で、しかも頭の回転も速く、3ヶ国語を母国語並みに話し、インターンシップの段階で丸紅に内々定もらっています。優秀な奴です。
外に出てくる奴がこれ位なら、自分大好きの中国の事です。母国で中間層を為す連中はどれほど優秀なのかと・・・。
今は技術者にはなれていない熟練工が多くても、その内増えてくるのでは・・・と。
投稿: ある大学生 | 2010年12月22日 (水) 23時09分
ある大学生さま、重ねてコメントをありがとうございます。
さて、振り返ってみますと、われわれ職人が、親方からは、一切、技術なんて教えてもらいませんでした。
技術は‘盗むもの’でしたから。
しかし、同じ‘盗む’にしても、日本と中国とでは、意味が全く違います。
中国は単純にパクリです。
しかし、日本人は、‘会得’します。
・・・その違いを具体的に言うのは難しいですね。
ある意味、技術は語るものではないですからね。
つまり、センスと努力ですね。
スポーツのセンスのない人が、一流になれないように、技術でもセンスのない人はモノにはなれません。
もちろん、センスがあっても努力しない人はダメですが・・・。
センスのない人は、努力を重ねて、熟練工として大成し、神の手を会得は出来るでしょうが、それまでです。
やはり産業の発展に欠かせないのは、技術者でしょう。
それが日本の為政者には理解できなかったために、深刻な空洞化になってしまいました。
そういうわけで、日本の劣化は進むでしょう。
しかし、だからと言って、中国が進化することとは別問題だと思います。
それは、中国人も認めています。
前回も書きましたが、中国には素地がないのですね。
もちろん、天才が現れることはあるでしょう。
しかし、日本の平賀源内が産業に寄与しなかったと同様に、素地(土壌)
がなければ育たないのですね。
中国は、100年前からその土壌作りから始めているわけですが、どうしても出来ないのですね。
その理由は、何度も書きますが、その国民性ですね。
うわべだけの技術は誰でも簡単にまねが出来ます。
中国が高速鉄道や地下鉄を走らせていると言っても、実際に走らせているのは外国人です。
つまり、設計どおりに作れば、機械が動くわけではないのですね。
そこのところが、分らないのです。
最近の日本人も分らない人が多くなりました。
何と例えてよいのか分りませんが、例えば、器械体操で、中国は世界一位のランクです。
しかし、新技の開発は、少ないですね。
だいたい、ロシア人か日本人が技を開発します。
中国は熟練をして一位になっています。
喩えが芳しくありませんが、そういうことだと思います。
投稿: あらま | 2010年12月23日 (木) 00時00分