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『大和魂』と『武士道』 - 6 《最終回》

大和魂こそ日本人の心 - 4

最初に、4回の連載のつもりで書き始めたのですが、何故か 6回目になってしまいました。
そこで、今回こそ、最終回です。

さて、今まで記してきたことは、小生の考えたものではなくて、昔の古書から引用したものばかりです。
つまり文語体で記されていたものを、適当に現代風にアレンジしているだけです。

さて、堕落した武士道を救ったのが 徳川家康 (写真)であったというところから続けます。Photo_2

徳川家康は、武士に対しては武家諸法度公家に対しては 禁中並びに公家諸法度 を制定して それぞれを戒めてしました。

そこで、禁中とは天皇のことです。つまり家康天皇に対しても、「天子が修めるべきものの第一は学問である。」・・・と、していたのですね。それほど、当時の天皇は不勉強だったということなんでしょうか。

堕落していた武士道の中で、なぜ、徳川家康がこのようなことが出来たかというと、家康の父祖たちは、みな比較的真面目で、虚栄や暴富を願ってはいなかったのですね。
特に家康に至っては、武士道に関する学問を研究し、その武士道の長所を家臣などに諭していたというのです。
その結果、徳川家の家臣は、みな武士道の真髄を会得していたので、徳川家は遂に大成し長く続つことになったものと考えられます。

もともと武士道は、幾分か大和魂の要素が残っていたのですが、その後、中国の儒教仏教の精神を取り入れていったのですね。
こうして徳川時代では、戦国時代のような 感情や利益によって主人を変更するような弊風が、ほとんど一掃されたのです。
こうして三代以上にわたって奉仕した主人に対しては、どんなことがあっても背反してはいけないという原則が生まれたのです。

つまり、武士道では、武士の礼儀・作法・知識・勇気 そして犠牲心などを培っていたので、確かに一般の民衆の道徳よりも高かったのですね。
しかし、惜しいことに、皇室つまり日本国家に対する大義名分の精神が失っていたのです。Photo_2

そこで、十七世紀の後半頃から日本古典の研究がようやく起きてきて、それとともに古代の大和魂が復活してきたようです。
つまり、国学が盛んになって、尊皇的な思想が高まってきたのでした。(写真は、国学者 本居宣長)
こうして遂に、明治維新が起り、徳川幕府はその政権を皇室に返上するこことなったのでした。
このように、非国家的な封建制度の下に発達した武士道にもとづいた政権は、尊皇的な思想、つまり皇国史観の勃興によって終ったのでした。

しかし、その皇国史観に基づいた思想も、その後 暴走することになるのでした・・・。

以上を要約すると、日本固有の精神とは大和魂で、これが日本建国の精神であり、日本固有の宗教心でもあるわけですね。
つまり、大和魂は極めて無私な心で、武士道はその大和魂の一部分から現れたものなのです。
つまり、武士道は一種の個人主義から起こったものなので、日本建国の精神と一致しない部分があるのですね。
言い換えますと、大和魂の大義名分は、国家・皇室なのに対して、武士道の大義名分は主君とか将軍だったのです。

このように、忠誠を誓う対象の違いが、大和魂武士道との違いなのですね。
その大義のジレンマに、武士たちは悩み苦しんだわけです。

以上をもって、大和魂武士道についての連載を終ります。

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