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水戸学

尊王論

年末の昨晩、公民館で、小生の所属する郷土史研究会の定例会がありました。隣の部屋からは、大晦日の「第九」の合唱に向けて最終調整の声が響いてきました。

さて、太平洋戦争も 60年以上も経ってしまったわけで、どうしてあのような狂気の体制である「皇国史観」が生まれたのか・・・、そんな事をテーマに、静岡県の郷土史を調べています。メンバーは、アマチュアの歴史家で、退職した先生が多いですね。その先生の中には、小生の中学生だった頃の‘恩師’がいます。

とにかく、静岡県といえば「駿府城」。大御所といわれた徳川家康の隠居したところで、さまざまな歴史的な資料がたくさんあります。

そこで、徳川家康は、公卿とか僧侶をたいへん嫌っていたようで、どうもそれは大阪城を攻めるときに聞いた「源氏物語」によるものらしいのです。

あの「源氏物語」の乱痴気騒ぎが、江戸幕府開設当時の公家の間でも続いていて、家康はそれを何とかしようと、公家諸法度とか公武法度などを次々と出して規制を強化しました。

(天皇の側室を他の公卿らが寝取ってしまったという事件も起こっていました。)

また、皇室と仏教界との距離も置かせ、権力の癒着を悉く排除しました。それが、徳川時代が長続きした理由の一つでもあるようです。

さて、徳川御三家の中でもご本家のお目付け役である水戸藩で生まれた水戸学は、江戸幕末の尊王攘夷運動に強い影響を与えたものとして知られています。

その水戸学の発生したのは、実は、徳川家が皇室を嫌っていた事が原因のようです。つまり、将軍家が皇室を嫌っていては国家統制(シビリアンコントロール)のためにはよくないと、水戸の黄門様は考えたようです。

そこで、『大日本史』などを編纂させて、皇国史の確立を図り、大義名分を明らかにしようとしたようです。

しかし、『大日本史』では、皇室の系譜を南朝に求め、それが当時の幕府や皇室との意向と違っていたため、暫くの間公表もできなかったようです。

その補正の意味も含めて、江戸や伊勢で「国学」が発達し、皇国史観の基礎へとなっていったようです。

どうやら、戦前の皇国史観は、中世の戦国時代の武家の公家嫌いから始まったようです。

この論拠は、「会報」で明らかにするつもりです。(ただし、時間があれば・・・)

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皇室」カテゴリの記事

コメント

ふむふむ・・・勉強になります。

投稿: まさゆまま | 2007年12月21日 (金) 02時34分

おはようございます。
私はこの「皇国史観」という言葉が大嫌いです。
上手く説明できませんが、この言葉には無機質の
冷たい感じがしてなりません。
一時期流行したマルクス史観の階級闘争を
日本史に持ち込んだよくサヨク連中が使う言葉です。
「皇国史観」「皇民化」何か全て悪の権化みたいな扱われ方です。

本来の日本が持つ日本史の中にはこの様な言葉は絶対当てはまりません。

投稿: jinmu | 2007年12月21日 (金) 06時17分

まさゆまま さま、小生の拙文をお読みくださりありがとうございます。
このブログのアクセス記録をみますと、結構「皇室」カテゴリーの記事に目を通して下さる方が多いようです。
最近は、記事に対するご意見を賜りませんが、以前は専門家の方からもご指導をいただいたことがあります。
そうした意味で、「皇室」カテゴリーは細々と続けております。

投稿: あらま | 2007年12月21日 (金) 08時14分

jinmu さま、毎度ありがとうございます。
日本人の特徴として、国民全体が一方に偏り、「体制」を築いてしまう傾向がありました。
いまでは「無関心」という傾向に偏りつつあると思います。
いずれにしましても、悲惨な戦争を回避するためにも、戦後の検証を続ける必要があると思います。
今の法律は、本土決戦を想定した国防の仕方です。
二度と、あのような、空襲に遭ったり、本土決戦をするような戦争をしてはならないと思います。
国を守る意識を高揚することは大切ですが、イデオロギーにとらわれた体制づくりは、亡国に導くものと考えます。

投稿: あらま | 2007年12月21日 (金) 08時21分

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