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ナガサキ

二重被曝

三日前は、「ヒロシマ」。そして、今日、「ナガサキ」。なんと、二重被曝体験をされた方がいたとは・・・・。

時間が経つほどに、拡大する被曝被害。放射能汚染は、代を超え、五感に感ずることなく進行し収まることを知らない性質があることを、あらためて知らされます。

ところで、核戦争は、勝者のない戦争。けっして平和実現の手段ではないことは、このブログで幾度と書いています。ところが、この「ナガサキ」「ヒロシマ」が、朝刊紙上で探すのが困難なほど、小さな記事になってしまっています。(夕刊では、一面を飾っていました)

「ヒロシマ」「ナガサキ」を忘れるな・・・。しかし、その‘風化’の勢いはすごい。

なぜ、こうなってしまったのでしょうか。

これは、運動の仕方に問題があったと思います。つまり、本来の核廃絶運動が、平和団体らによって、一般的な反戦運動という「理想論」「空論」にすりかえられたり、拡大してしまったから、焦点がボヤけてしまったのだと思います。

さて、「戦争反対」、それ自体が最初から実現不可能のなもの、あるいは自己矛盾したもの、さらに現実的な国防を妨害する考えかたであることが広く知れ渡っております。

この背景には、世界の対立構図自体も、冷戦構造から、無差別テロへと変わってきたことも上げられます。

しかし、平和運動活動の減衰とともに、本来の意味である被曝の悲惨さを訴える事も同じように風化されてしまうのは残念です。

一度手にした核を、人類から放棄させることは、世界から戦争をなくすと同様に不可能でありましょう。ならば、核使用を放棄させる運動として、明確にアピールしたなら、「ナガサキ」も「ヒロシマ」も、こんなに衰退しなかったと思います。

重ねて言いますが、戦争をなくすことも、核兵器を放棄させることも、現段階では不可能です。それでも「ナガサキ」の悲惨を訴える目的は、核兵器使用によって招かれるであろう「滅亡」から、人類を守るためです。

もうひとつ、「ヒロシマ」と「ナガサキ」の双方で核廃絶を訴える意味。

それは、人間の過度な探求心に対する警告でしょう。神の領域に踏み込む科学のメスに対する激しい自省と警鐘です。

アメリカは戦争を終結させるためというのに、なぜ2回も原爆を投下したのか。

「ヒロシマ」と「ナガサキ」。種類の違う2つの原爆を投下することによって、アメリカはそれぞれの核兵器の実験結果を得ようとしたのです。

それに抗議する意味において、「ヒロシマ」と「ナガサキ」が、ともに核廃絶を訴える事が必要なのです。戦争は科学技術を、格段に飛躍させると言われています。だからと言って、戦場でない民間人の頭上を、実験の場として利用してよいはずがありません。

人体実験のための、「ヒロシマ」「ナガサキ」だったのです。

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