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はじめてのテレビ

叩くと治る

わたしの父も「新しいもの好き」で、電気製品で新しいモノが宣伝されると、次の日には家にあった・・・と思うほどスグ買ったものだった。

テレビの電波が、こんなイナカに届いていると知ると、父は父の弟(つまり私の叔父)に、テレビを作らせた。

家電メーカーのテレビは高額だったようだ。そこでテレビキットなるものが売られていて、当時 無線技師一級の叔父に作ってもらったようだ。

わたしが生まれる前に、そのテレビでは「小鳩くるみ」という童謡歌手を映し出していたようだ。そこで父は、私の名前を「くるみ」と命名しようとしたが、男の子に「くるみ」はヘンだと、母が大反対。おかげで、わたしは「くるみ」ではない。

さて、そのテレビだが、勿論、真空管の白黒テレビ。故障が多かった。しかし、叩くと映る。

その頃から、調子が悪くなると何でも叩いた。それで治るのだから不思議だ。

その調子でノートパソコンを叩いたら、液晶が割れた・・・(涙)

話を戻す。ある日、停電した。すると、テレビの真中で星が輝いた。しばらくして停電が復旧するが、テレビがなかなか映らない。

そこで、父は、真空管を取り出して、なんとローソクの火でその真空管をあぶりだした。俗にいう「火あぶりの刑」。それで真空管が復旧してしまう。

当時の家電は、叩かれたり、あぶられたり、虐待されていた。

余談になるが、当時珍しい洗濯機も我が家にあった。洗濯槽の上にローラーがあって、それで濡れた洗濯物を搾ったようだが、わたしがそれで指を挟んでからは、その洗濯機は姿を消した。

それから間もなくオールトランジスターテレビなるものが売り出され、父はすぐ買ってきた。確か、10インチぐらいの小さなテレビ。父は小さいことを自慢していたが、急に家が貧しくなった感じがした。

翌年に、UHF放送が始まったが、UHFコンバーターのほうが、テレビの本体よりも幅が広かった。

『ジャングル大帝』が放送されたころ、我家のテレビもカラーテレビになった。

家具調の大きなテレビである。急に家が裕福になった感じがした。まず最初に、グリーンの縦のベルトが出て、それでカラー調整した。ステレオ音響の低音が響いた。狭いウサギ小屋では、そのテレビは余りにも存在感が大きかったため、一年で撤去。

テレビの普及が、一億総ハクチ化といわれた時代だった。その頃、ビデオとともにテレビゲームが出てきた。今でいうエアホッケーみたいなゲームだったか・・・。それが、わたしがバカになったルーツである。(と、言い訳している。)

今の我が家には、テレビが5台にビデオが2台。DVDが2台。HDDレコーダーもある。その他に、DVD対応のパソコンが6台。画面だらけである。一日の大半を画面に費やしている。明かに異常である。

【参考資料 小鳩くるみ さん】
誕生日:1948年1月20日
出身地:愛知県一宮市
本名:鷲津名都江(わしづ・なつえ)
江戸時代の儒学者・鷲津幽林の血をひく。
3歳の時、NHK名古屋放送局の歌番組「こども音楽会」で飛び入り出演し、40数人中1人だけ鐘が連打され、名古屋代表に選ばれる。
4歳で日劇の舞台を踏む。「ぴょんぴょん虫」でデビュー。また「ソリソリ走れ」で童謡歌手としてデビュー。
6歳(小学校1年)から6年間、雑誌『なかよし』の表紙を飾る。
彼女をモデルにした「小鳩くるみちゃんのカール人形」という人形が増田屋から発売された。
NHK「なかよしリズム」のお姉さんを経て、10代目歌のおねえさんに(1972年4月~1974年3月)。
アニメ「アタックNo.1」やディズニー映画「白雪姫」の主題歌を歌う。
また、「アタックNo.1」(鮎原こずえ)、海底3万マイル、ながぐつ三銃士など、声優としても有名。
青山学院大学英米文学科卒業。7年後、教育学科へ学士編入。大学院修士課程へ。ロンドン大学教育学研究所卒。
1985年目白学園女子短期大学講師となり、1986年に助教授に就任。現在は目白大学人間社会学部教授。
専門は「マザーグース」(ナースリー・ライム)の研究、児童教育。
受賞歴:久留島武彦賞(昭和52年)、日本童話賞特別賞(昭和58年度)

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